昭和と拝島の1文字ずつをとった昭島駅

東京都の立川から奥多摩までを結ぶJR青梅線の昭島駅(あきしまえき)は、かつて「昭和前」という駅名でした。

このあたりは昔、8つの村が合併してできた昭和村という地名でしたが、この地名にちなんで駅名がつけられたわけではないようです。

1938(昭和13)年に、機械メーカーの昭和飛行機工業株式会社がこの地に進出、製造を開始することになりました。

それに合わせて同会社の工員が通勤するための駅として現在の青梅線である青梅電気鉄道の仮停留所が設置されたのが駅のはじまりで、「昭和前」の駅名は昭和飛行場の前ということにちなんでつけられたのです。

現在のJR鶴見線である鶴見臨港鉄道に「昭和」という既存の駅があったので、重複を避けるため「前」をつけて「昭和前」としたようです。

昭和飛行機工業は現在でもこの地で操業を続けています。

戦後に昭和の大合併がおこなわれると、1954(昭和29)年、昭和村は隣の拝島市と合併して昭島市となります。

昭島市という名前は、昭和と拝島の1文字ずつをとって付けられました。

昭島市役所が昭和前駅の近くに置かれ、昭和前駅は昭島市の中心駅となったこともあって、5年後の1959(昭和34)年に市の名前と同じ昭島駅と改称されました。

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銀座に住所のない場所がある

東京の一等地に、どの区にも所属しないという土地があります。

新橋駅近くの、買い物客でにぎわう銀座ナインというショッピングモールなどがある銀座8丁目の端で、約6000坪もの広大な土地です。

郵便物などは便宜上の住所、東京都中央区銀座8-10先でちゃんと届くそうですが、正式な住所が中央区なのか千代田区なのか港区なのかはっきりしないようです。

かつて戦後まもないころまでは、この地域の区分けはきちんとされていたといいます。

空襲で焼かれて散乱した瓦礫を処理するにあたって、当時あった汐留川や外濠を埋めることになりますが、このあたりの土地の区境だった汐留川や外濠が埋められたことにより境が分からなくなってしまったのです。

ほかにも同様に、西銀座デパートが銀座4-1先、銀座ファイブが銀座5-1先、銀座インズが銀座西2-2先という便宜上の住所で、区がはっきりしません。

住民たちの要望で話し合いが何度もおこなわれてきたそうですが、企業や老舗などが多く集まり集客のある銀座ということで、どの区も自分の区に入ってほしいと思うのは当然で、話し合いはなかなかまとまらず何十年もの間、現在のような状態が続いているのです。

この区域には住民登録がありませんが、事業所だけなので問題ないようです。

亀有はかつて亀無だった

東京には亀有、亀沢、亀戸など「亀」のつく地名がいくつかありますが、生き物の亀ではなく亀の甲羅の形のように土地が高くなっていることを指して名前がつけられたようです。

亀有は東京都葛飾区にある地名で、かつては亀無(かめなし)または亀梨(かめなし)と呼ばれていましたが、1644(正保元)年に幕府が正保国絵図を作成するさい「無し」に通じるので縁起が悪いとされ、現在の「有」に変えられました。

縁起を担ぐのは地名に限ったことではなく、昔の人は「4」の数字を「し」だと「死」に通じ縁起が悪いからと「よん」という読み方をするようになりましたし、「スルメ」は「所持金や財産などをする」という意味に通じるとして「アタリメ」とも呼ぶようになりました。

地名の縁起も居住者にとっては問題ですので、縁起が悪いとなれば変えたくなるものでしょう。

亀有は1897(明治30)年に亀有駅が開設されてから急速に発展し、亀有駅を中心とした地域は葛飾区屈指の商業地域となっています。

かつては駅の周辺に狭小な商店街が連なっていましたが、大規模な再開発により商業ビルやマンション、大型ショッピングセンターがつくられ大きく変わりました。

ちなみに漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の舞台としても知られています。

火薬庫前という物騒な駅名

東京都世田谷区松原にある、京王電鉄の駅「明大前」は明治大学のキャンパスにちなんだ駅名ですが、開業時は「火薬庫前」という名前でした。

物騒なこの駅名の由来は、現在の明治大学和泉校舎近辺に日本帝国陸軍の火薬庫があったことに関係しています。

また、江戸時代には徳川幕府の煙硝蔵という施設が設けられていました。

煙硝蔵というのは、鉄砲や火薬などの貯蔵庫です。

京王電鉄の前身・京王電気軌道の火薬庫前駅が開業したのは1913(大正2)年で、現在の明大前駅より西に約200メートル離れた場所にありました。

「火薬庫前」は4年後に村名の「松原」に改名され、しばらくは松原駅でした。

1933(昭和8)年に帝都電鉄(現在の井の頭線)が開通し、京王線と接続するため「西松原」駅が設置されます。

その1年後、火薬庫の跡地に明治大学の予科が移転してきたので松原駅は西松原駅のそばに移設されて統合し、現在の「明大前」の駅名になったのです。

かつて軍隊の施設であった火薬庫が廃止された跡地は、明治大学だけでなく築地本願寺にも払い下げられています。

1923(大正12)年の関東大震災で築地本願寺は被災したので墓地を移転する必要があり、
火薬庫跡地は築地本願寺和田堀廟所となりました。

歌舞伎町に歌舞伎座はない

東京都新宿区に位置する歌舞伎町は、飲食店や映画館、劇場、娯楽施設が集中し、日夜人通りが絶えることない歓楽街であり、日本を代表する繁華街のひとつです。

しかし歌舞伎町という地名にもかかわらず、新宿の歌舞伎町に歌舞伎座があったことはありません。

本当は歌舞伎座がある町になる予定だったのに、計画がダメになり悲しいことに呼び名だけが残されてしまったのです。

1945(昭和20)年、空襲により新宿歌舞伎町の周辺は一面焼け野原となってしまいましたが、東京都や町内の人々は復興を目指して協力し、復興計画が出来上がりました。

その計画の内容は、焼け野原になってしまった広大な土地に芸能や娯楽施設をつくり、娯楽地域にしようという前向きなものでした。

大きな劇場や演芸場、映画館、大宴会場などを建てる計画が練られ、歌舞伎座・菊屋がその中心施設とされていました。

そして菊屋の建設にともない、町名が歌舞伎町と変更されたのです。

ところが建設制限令や金融措置法の発令で、歌舞伎町の娯楽施設建設計画はほとんどがなくなってしまい、その結果呼び名だけがそのまま残ったのです。

しかし、町民が挫折に負けず復興をあきらめなかったおかげで、後に現在のような娯楽の街が出来上がったのです。

伊豆諸島が東京都の管轄である理由

伊豆半島は静岡県なのに伊豆諸島は東京都の管轄下にありますが、かつて伊豆諸島は伊豆半島とともに静岡県でした。

ところが1878(明治11)年に、伊豆諸島は静岡県から東京府に編入されます。

伊豆諸島だけが編入されたのには理由があり、伊豆諸島は古くから伊豆半島よりも江戸との関係が密接だったのです。

伊豆諸島では米の生産ができなかったため、塩や絹織物を年貢として江戸幕府に納め、その代わりに米の支給を受けたり、また、島の産物である絹織物や魚類などを江戸へ持って行って売り、手に入れたお金で食料や日用品などを買ったりしました。

租税や戸籍といった行政事務も伊豆半島ではなく東京の出張所で処理がなされていたといいます。

このように伊豆諸島は東京と深い結びつきがあったので、島の住民は東京への編入を望む人が多くいて、願い通り東京府に移管されたのです。

また、東京へ編入された理由として、伊豆諸島の位置が東京の真南であり軍事戦略上の重要な拠点であったことも関係しています。

小笠原諸島も同様な理由で東京の管轄下におかれ、軍事基地とされていました。

アメリカ軍に占領された小河原諸島は1968(昭和43)年、日本に返還されて現在でも東京都の管轄となっています。